今回は、北海道マスタープラクティショナー受講生の
永江さやかさんです。
北海道で養護教諭の先生をして
たくさんの子供たちと接しています。
NLPフィールドの参加者の声にも登場して頂いています。
彼女の内容から、
あなたにとって「自由」って何だろう?
と考えてもらえたら嬉しいです!
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なにものにもとらわれないとか、
遮る物がないというよりかは、
ちょっとマイ ナスイメージからのアプローチになってしまうけれど、
「不自由になったときに初めて知るもの」
なのかもしれないなぁ、ということ。
逆に言えば、
それほど自由というものは無色透明で、
空気のようで水のような、
うっかりすると当たり前だと思えるものなのでしょう。
太平洋戦争後すぐの日本は生活環境が劣悪な上に、
たくさんの大人が戦争で命を落としてしまったがために、
孤児がたくさん巷にあふれていたわけです。
戦争の恐怖を緩和するために
まだ国が覚醒剤を合法として販売し、
終戦後その余剰分を普通に薬局で「ヒロポン」という名前で買えてしまう、
そんな社会情勢の中、
子供を保護し、教育していくことは、
国の再建において急務だったわけです。
GHQを中心に、
子供が子供らしく生きられるように、
なかば強引に保護し、
養護施設に“収容”(という言葉を使ってしまいますが)していきました。
当然、食べること、着ること、
そして教育を受けることが最低限保証されます。
路上の孤児であれば、
劣悪な生活環境の中で餓死したり、
悪い大人の食い物になる可能性もあることから考えても
それは天と地ほどの差があることは歴然としています。
でも、ここから脱走する子供が後を絶たなかったそうです。
何故か?
彼らにとって一番大切だったのは、
「自由」だったから。
彼らにとって、
生きることはご飯を食べる食べない、
でなく、
「自分で決めたように自分で生きていくこと」
だったから。
育ち盛りの子供ですから、
心配しなくても毎日ご飯を食べられるというのは
何にも代え難い幸福の一つではあったはずです。
しかし、それを捨ててでも自由を選んだのは、
それを失ってみて初めてその大切さをかみしめたからでしょう。
自由というものを考えるのに、もう一つのお話があります。
これもまた戦争の話になってしまいますが、
第二次大戦中、連合軍の捕虜がドイツ(ナチス)の収容所に
いたときの話でこんなのがあります。
それぞれの国(イギリスやアメリカなど)の軍人が
バラバラに取り混ぜてグループとなり、
3つほどの監房に分かれて過ごしたときのこと。
ある監房のグループは、
一つの椅子を取り出し、
「よし、今日からここには小さな女の子がいると思うことにしよう。」
一つのゲームをみんなで取り決めました。
見えないその女の子に名前をつけ、
彼らはまるでそこに実在しているかのように
生活をしました。
当然、丸裸にもなれないし、
汚い言葉を吐いたりもせず、
紳士らしく振る舞って生活をしたのです。
女の子のために花を摘み飾り、
部屋を綺麗にし、
架空に決めた誕生日を祝う会まで開いたそうです。
結果、3つの監房の中で、
全員が生き残ったのはこの監房だけでした。
他の房では途中でけんかをして死んでしまったり、
希望を失って自殺したり、
すさんだ生活のストレスによって
寿命を縮めた者もたくさんいたそうです。
一見するとばかげたゲームのようでしたが、
それは心や命を支える大切な働きをしたのです。
捕虜になるという、
自主性や尊厳が無視された世界の中で、
“自分で決めた”ルールを守ることで、
それは彼らに希望を与え、そして支えとなったのです。
余談ですが、
私の母校は自由な校風で地元では有名なのですが
(なにしろ制服も、校則もない)、
校訓が「自主 自律」で、
自由は「自主性」と「自分を律する」ことで、保たれる、
というこの意味を今更ながらかみしめているところです。
NLPやコーチングの世界でも、
「自分で決定する」ということを大切にしますが、
私はNLPの勉強を始めたとき、
これらの話を真っ先に思い出しました。
私の「自由」ってそんな感じで大切なものとして
自分の軸を構成しています。
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