「自由」についてのとても興味深い内容を
もらうことができました。
そして、初の受講生の共演。
今日は午前中と午後に受講生の日記を
掲載していますのでお楽しみ下さい。
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あなたにとって、
「自由」とはどんなことでしょう?
なにかしたいと思ったときに、
誰にもうるさく言われず、
欲しいものが思うように手に入り、
行きたいと思う所に行って、会いたい人に会える・・・
つまり、自分の期待どおりにものごとが動くこと、
それこそが自由・・
とかつての私は信じて疑いませんでした。
そして、そんな生活に憧れもし、
自然の成り行きとして、
それに近い生活も送ることも叶いました。
でも、いざ求めていたものを手にしたとき、
その自由から得られる満足感が決してなかったわけではありませんが、
期待していたほどでもなく、
そして、それが長続きすることもありませんでした。
そこで、そういうときに誰でもがすることですが、
また次の満足を求めました。
求めては満たし、求めては満たし・・
の連続で、どこか不安定で、どこか期待はずれ、
いつも喉の渇きが治まらない・・・
そんな状態が続きました。
私が求めていたのは「自由」ではなく、
「欲望」や「願望」を満たすことを
「自由」と思い込んでいたのかもしれません。
昔読んだモーパッサンの「ひも」という短編に、
一人の農夫が登場します。
彼は、市場で拾った一本の紐を、
何気なくポケットに入れてしまいます。
ところが、それがきっかけで、
その時たまたま「財布がない」と騒いでいた女性や市場の人々に、
無実の罪を着せられることとなるのです。
彼のみすぼらしい身なりも、
人々の疑いをよりいっそう大きくしました。
その後、盗まれたと思われた財布は
思いがけないところから出てきたため、
農夫にかけられた疑いも消え、
彼は、晴れて自由の身となりました。
その出来事は、その場に居合わせた野次馬や警官、
そして、落とし主だった女性にとっても、
数日後には忘れ去ってしまうような些細な事件にすぎません。
実際人々はそんなことがあったということさえすっかり忘れ、
元の生活に戻っていきました。
ところが、農夫だけは、
その数時間のできごとを生涯忘れることができませんでした。
彼の時計の針はその時点で進むことを止め、
頭の中では、四六時中その事件が再生され続けたのです。
大切にしていた畑には雑草が伸び放題・・
それ以来一度も耕すことなく荒れ果てた畑を残したまま、
農夫は最期を迎える・・
といったあらすじでした。
この短編を読んだとき、
もしも自分がこの農夫だったら・・・
どうやってそのショックから立ち直り、
どうやってその記憶から自分を自由にできるだろうか・・
と深く考えさせられました。
そして、
心が折れるというのは、
『心の自由』が奪われてしまうことなんだな・・・
と思いました。
もう一つ、
「自由」にまつわる、
わたしにとって忘れることのできないストーリー・・
かつて、ナチスに捕らえられた精神科医フランクルの話です。
ユダヤ人というだけで、
子供も大人も無差別に収容所に送られ、
400万人ものユダヤ人が殺戮された第2次世界大戦中の出来事です。
フランクルも、
極寒の地で最低限の衣食住も満たされないまま、
過酷な労働を強いられました。
その上、人間としての尊厳も奪われるような屈辱のなかで、
3年間暮らしたのです。
それでも彼は、希望を失うことなく、
ついに生還し、収容所で心に描き続けてきたとおり、
そこでの体験から学んだ彼の哲学を人々に伝え続けました。
彼を収容所の中で支えていたのは、
人々の役に立ちたいという強い願望でした。
人生に何を求めるのかではなく、
あなたは、与えられた人生から何を求められているのか?
と、フランクルは私たちに問いを発します。
彼は出来事や環境の「犠牲者」でいる代わりに、
いつも自分がその状況の主権を握る主人公でい続けたのです。
その時に破棄された論文を、
彼は収容所内で、小さな紙切れに記号で書き続けたとも言われています。
破り捨てられては書き、破られては書き、その繰り返しだったとも・・
そして、そのような過酷な環境のなかで、
収容所の空を赤く染める美しい夕日に、
フランクルは今までになかったほどに心を奪われ、感動するのでした。
『自由』というのは、
必ずしも物理的な条件が満たされなければ得られない、
いうわけではない・・
と初めて私に思わせてくれたのは、フランクルのこの物語でした。
インドに伝わる古典「バカバッド・ギーター」のなかで、
クリシュナ神が戦士アルジュナに語る、次のような一節があります。
「幸せと不幸を平等にみたとき、
この世の苦しみから解放されて『真の自由』を得るだろう」
わたしたちが恐怖や怒りから開放されたとき、
何が起きようとも心が波立たず、
すべてのできごとを中立のものとして受け止められるようになる・・
そんな意味でしょうか?
だからといって、心を鈍くして、何があっても諦めよ・・ということではなく、
ギーターには、
「結果に対するいっさいの執着を捨て、
ただひたすら己の義務に集中せよ」
というクリシュナの言葉が、何度も何度も、繰り返しでてきます。
戦士には戦士の、
商人には商人の、
王族には王族の、
庶民やスードラに生まれたなら、
そこで与えられた瞬間にただ集中し、努力を惜しまず、
徹底的に献身せよ、と言っているようです。
つまり、変えることのできないものは素直に受け入れ、
自分の努力でなんとかなるものには深く集中せよ・・
ということでしょうか。
階層のない日本に生まれた私たちの人生にも、
自分ではどうにもならない、
避けて通りたくなるようなでき事が突然訪れることがあります。
中立であるはずの出来事に「心の自由」を奪われ、
囚われたままそこから抜け出せなくなることも、
誰にでもあるでしょう。
そんな時、犠牲者になりきっている自分が、
人生の主権をとりもどすのは容易なことではありません。
それでも、きっといつの日か、
人生に何を求められても、何が起きようとも、
笑って”YES“と言える自分になれたら・・。
それがフランクルの問う、
あなたは人生から何を求められているのだろうか・・
ということであり、
ギータの語る『自由』・・
ということなのかもしれません。
そして、いつの日か、
『自由』の中で心地よく泳ぐ日が訪れるとしたら・・・
その境地の中で見える景色は、今とどのように違うのでしょうか・・・
もしも、この人生で求められた課題を果たしきったとしたら、
そのとき、あなたのこころは、『自由』をどう感じているでしょう?
そして、そのとき手にした『自由』とは、
今思う「自由」と、どうように違うのでしょうか?
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