今回は東京プラクティショナー受講生のMackyさんより
「自由」についてのとても興味深い内容を
もらうことができました。
そして、初の受講生の共演。
今日は午前中と午後に受講生の日記を
掲載していますのでお楽しみ下さい。
+ + +
あなたにとって、
「自由」とはどんなことでしょう?
なにかしたいと思ったときに、
誰にもうるさく言われず、
欲しいものが思うように手に入り、
行きたいと思う所に行って、会いたい人に会える・・・
つまり、自分の期待どおりにものごとが動くこと、
それこそが自由・・
とかつての私は信じて疑いませんでした。
そして、そんな生活に憧れもし、
自然の成り行きとして、
それに近い生活も送ることも叶いました。
でも、いざ求めていたものを手にしたとき、
その自由から得られる満足感が決してなかったわけではありませんが、
期待していたほどでもなく、
そして、それが長続きすることもありませんでした。
そこで、そういうときに誰でもがすることですが、
また次の満足を求めました。
求めては満たし、求めては満たし・・
の連続で、どこか不安定で、どこか期待はずれ、
いつも喉の渇きが治まらない・・・
そんな状態が続きました。
私が求めていたのは「自由」ではなく、
「欲望」や「願望」を満たすことを
「自由」と思い込んでいたのかもしれません。
昔読んだモーパッサンの「ひも」という短編に、
一人の農夫が登場します。
彼は、市場で拾った一本の紐を、
何気なくポケットに入れてしまいます。
ところが、それがきっかけで、
その時たまたま「財布がない」と騒いでいた女性や市場の人々に、
無実の罪を着せられることとなるのです。
彼のみすぼらしい身なりも、
人々の疑いをよりいっそう大きくしました。
その後、盗まれたと思われた財布は
思いがけないところから出てきたため、
農夫にかけられた疑いも消え、
彼は、晴れて自由の身となりました。
その出来事は、その場に居合わせた野次馬や警官、
そして、落とし主だった女性にとっても、
数日後には忘れ去ってしまうような些細な事件にすぎません。
実際人々はそんなことがあったということさえすっかり忘れ、
元の生活に戻っていきました。
ところが、農夫だけは、
その数時間のできごとを生涯忘れることができませんでした。
彼の時計の針はその時点で進むことを止め、
頭の中では、四六時中その事件が再生され続けたのです。
大切にしていた畑には雑草が伸び放題・・
それ以来一度も耕すことなく荒れ果てた畑を残したまま、
農夫は最期を迎える・・
といったあらすじでした。
この短編を読んだとき、
もしも自分がこの農夫だったら・・・
どうやってそのショックから立ち直り、
どうやってその記憶から自分を自由にできるだろうか・・
と深く考えさせられました。
そして、
心が折れるというのは、
『心の自由』が奪われてしまうことなんだな・・・
と思いました。
もう一つ、
「自由」にまつわる、
わたしにとって忘れることのできないストーリー・・
かつて、ナチスに捕らえられた精神科医フランクルの話です。
ユダヤ人というだけで、
子供も大人も無差別に収容所に送られ、
400万人ものユダヤ人が殺戮された第2次世界大戦中の出来事です。
フランクルも、
極寒の地で最低限の衣食住も満たされないまま、
過酷な労働を強いられました。
その上、人間としての尊厳も奪われるような屈辱のなかで、
3年間暮らしたのです。
それでも彼は、希望を失うことなく、
ついに生還し、収容所で心に描き続けてきたとおり、
そこでの体験から学んだ彼の哲学を人々に伝え続けました。
彼を収容所の中で支えていたのは、
人々の役に立ちたいという強い願望でした。
人生に何を求めるのかではなく、
あなたは、与えられた人生から何を求められているのか?
と、フランクルは私たちに問いを発します。
彼は出来事や環境の「犠牲者」でいる代わりに、
いつも自分がその状況の主権を握る主人公でい続けたのです。
その時に破棄された論文を、
彼は収容所内で、小さな紙切れに記号で書き続けたとも言われています。
破り捨てられては書き、破られては書き、その繰り返しだったとも・・
そして、そのような過酷な環境のなかで、
収容所の空を赤く染める美しい夕日に、
フランクルは今までになかったほどに心を奪われ、感動するのでした。
『自由』というのは、
必ずしも物理的な条件が満たされなければ得られない、
いうわけではない・・
と初めて私に思わせてくれたのは、フランクルのこの物語でした。
インドに伝わる古典「バカバッド・ギーター」のなかで、
クリシュナ神が戦士アルジュナに語る、次のような一節があります。
「幸せと不幸を平等にみたとき、
この世の苦しみから解放されて『真の自由』を得るだろう」
わたしたちが恐怖や怒りから開放されたとき、
何が起きようとも心が波立たず、
すべてのできごとを中立のものとして受け止められるようになる・・
そんな意味でしょうか?
だからといって、心を鈍くして、何があっても諦めよ・・ということではなく、
ギーターには、
「結果に対するいっさいの執着を捨て、
ただひたすら己の義務に集中せよ」
というクリシュナの言葉が、何度も何度も、繰り返しでてきます。
戦士には戦士の、
商人には商人の、
王族には王族の、
庶民やスードラに生まれたなら、
そこで与えられた瞬間にただ集中し、努力を惜しまず、
徹底的に献身せよ、と言っているようです。
つまり、変えることのできないものは素直に受け入れ、
自分の努力でなんとかなるものには深く集中せよ・・
ということでしょうか。
階層のない日本に生まれた私たちの人生にも、
自分ではどうにもならない、
避けて通りたくなるようなでき事が突然訪れることがあります。
中立であるはずの出来事に「心の自由」を奪われ、
囚われたままそこから抜け出せなくなることも、
誰にでもあるでしょう。
そんな時、犠牲者になりきっている自分が、
人生の主権をとりもどすのは容易なことではありません。
それでも、きっといつの日か、
人生に何を求められても、何が起きようとも、
笑って”YES“と言える自分になれたら・・。
それがフランクルの問う、
あなたは人生から何を求められているのだろうか・・
ということであり、
ギータの語る『自由』・・
ということなのかもしれません。
そして、いつの日か、
『自由』の中で心地よく泳ぐ日が訪れるとしたら・・・
その境地の中で見える景色は、今とどのように違うのでしょうか・・・
もしも、この人生で求められた課題を果たしきったとしたら、
そのとき、あなたのこころは、『自由』をどう感じているでしょう?
そして、そのとき手にした『自由』とは、
今思う「自由」と、どうように違うのでしょうか?
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2011年03月09日
私の“自由”観
今回は、北海道マスタープラクティショナー受講生の
永江さやかさんです。
北海道で養護教諭の先生をして
たくさんの子供たちと接しています。
NLPフィールドの参加者の声にも登場して頂いています。
彼女の内容から、
あなたにとって「自由」って何だろう?
と考えてもらえたら嬉しいです!
*****************************
なにものにもとらわれないとか、
遮る物がないというよりかは、
ちょっとマイ ナスイメージからのアプローチになってしまうけれど、
「不自由になったときに初めて知るもの」
なのかもしれないなぁ、ということ。
逆に言えば、
それほど自由というものは無色透明で、
空気のようで水のような、
うっかりすると当たり前だと思えるものなのでしょう。
太平洋戦争後すぐの日本は生活環境が劣悪な上に、
たくさんの大人が戦争で命を落としてしまったがために、
孤児がたくさん巷にあふれていたわけです。
戦争の恐怖を緩和するために
まだ国が覚醒剤を合法として販売し、
終戦後その余剰分を普通に薬局で「ヒロポン」という名前で買えてしまう、
そんな社会情勢の中、
子供を保護し、教育していくことは、
国の再建において急務だったわけです。
GHQを中心に、
子供が子供らしく生きられるように、
なかば強引に保護し、
養護施設に“収容”(という言葉を使ってしまいますが)していきました。
当然、食べること、着ること、
そして教育を受けることが最低限保証されます。
路上の孤児であれば、
劣悪な生活環境の中で餓死したり、
悪い大人の食い物になる可能性もあることから考えても
それは天と地ほどの差があることは歴然としています。
でも、ここから脱走する子供が後を絶たなかったそうです。
何故か?
彼らにとって一番大切だったのは、
「自由」だったから。
彼らにとって、
生きることはご飯を食べる食べない、
でなく、
「自分で決めたように自分で生きていくこと」
だったから。
育ち盛りの子供ですから、
心配しなくても毎日ご飯を食べられるというのは
何にも代え難い幸福の一つではあったはずです。
しかし、それを捨ててでも自由を選んだのは、
それを失ってみて初めてその大切さをかみしめたからでしょう。
自由というものを考えるのに、もう一つのお話があります。
これもまた戦争の話になってしまいますが、
第二次大戦中、連合軍の捕虜がドイツ(ナチス)の収容所に
いたときの話でこんなのがあります。
それぞれの国(イギリスやアメリカなど)の軍人が
バラバラに取り混ぜてグループとなり、
3つほどの監房に分かれて過ごしたときのこと。
ある監房のグループは、
一つの椅子を取り出し、
「よし、今日からここには小さな女の子がいると思うことにしよう。」
一つのゲームをみんなで取り決めました。
見えないその女の子に名前をつけ、
彼らはまるでそこに実在しているかのように
生活をしました。
当然、丸裸にもなれないし、
汚い言葉を吐いたりもせず、
紳士らしく振る舞って生活をしたのです。
女の子のために花を摘み飾り、
部屋を綺麗にし、
架空に決めた誕生日を祝う会まで開いたそうです。
結果、3つの監房の中で、
全員が生き残ったのはこの監房だけでした。
他の房では途中でけんかをして死んでしまったり、
希望を失って自殺したり、
すさんだ生活のストレスによって
寿命を縮めた者もたくさんいたそうです。
一見するとばかげたゲームのようでしたが、
それは心や命を支える大切な働きをしたのです。
捕虜になるという、
自主性や尊厳が無視された世界の中で、
“自分で決めた”ルールを守ることで、
それは彼らに希望を与え、そして支えとなったのです。
余談ですが、
私の母校は自由な校風で地元では有名なのですが
(なにしろ制服も、校則もない)、
校訓が「自主 自律」で、
自由は「自主性」と「自分を律する」ことで、保たれる、
というこの意味を今更ながらかみしめているところです。
NLPやコーチングの世界でも、
「自分で決定する」ということを大切にしますが、
私はNLPの勉強を始めたとき、
これらの話を真っ先に思い出しました。
私の「自由」ってそんな感じで大切なものとして
自分の軸を構成しています。
2011年02月16日
忘れられない言葉〜谷岡さやかさん
水曜日は、受講生からの投稿をお願いしています。
その週のテーマで、書きたい方がでてきたら
掲載をしていっています。
今週は、北海道でNLPを受講された
NLPマスタープラクティショナーの谷岡さやかさんです。
とても深い内容ですので
楽しんで読んでみてください。
*****************
言葉であらゆるものを形容するが、
言葉そのものを言葉で形容する、となると
はたと手が止まる。
「矢のように突き刺さる言葉」であったり、
「心に染み入る言葉」であったり、
その言葉の意味に特化した表現になってしまう。
できれば、”言葉”全般を捉えてヒトコトで表現したいと思った。
そこでしばしアタマをぐるりと捻って考える。
「鏡のような言葉」
これはなかなかないような気がする。
そういえば、かつて自分が言われてそう感じた言葉がある。
「最初の一歩は難しい。 そして次の一歩はもっと難しい。」
私がとある研究会を立ち上げたものの、
次の年に周囲のモチベーションが上げられなくて
なかなかうまく運営できなかったときに、
心から尊敬する先輩から戴いた言葉だった。
道立の研究所に入って研修を受けていたときに知り合った、
場所が場所なら上司になるようなベテランの方だった。
気さくに話し、自分が経験して得たすばらしい
エッセンスを惜しみなく分け与えてくれる、
優しい人であった。
と同時に、
保身のために主義を曲げるようなことはせず、
信念を持った硬骨漢でもある。
人を育てることが、それは素晴らしく「デキる人」だ。
結果として、
その研究会は、私の転勤をもって、
別な方へバトンタッチすることとなり、
残念ながらその研究会の行く末を見ることなく、
現在の勤務地に引っ越すことになってしまった。
しかし今でもその言葉を思い出す。
「最初の一歩は難しい。 そして次の一歩はもっと難しい」
そのときの心のありようで、
この言葉はその言葉以上に私に語りかけてくる。
あるとき私にこう語りかける。
何もないところから創り出すことの難しさ。
そしてそれを維持していくことの難しさ。
それは比較のしようがない、どちらも血のにじむような努力が必要である、
という教訓でもある。
あるときは、
それ故に一人で背負い込まず、助けてもらうことも大切なのだ、
目標はどこにあるか、人に頼らないことが目標なのではない。
初めに掲げたその目標を達成することが大切なのだ。
あるときは、
最初の一歩を踏み出して、天狗になるな、
次のその一歩をしっかりと踏みしめるまで、
気を引き締めていくのだ。
そしてあるときは、
難しい、難しいからやめるのか?
でもそうまでしても達成したい自分の心に
ベールを被せてしまうのか?
・・そう問いかけてくることもある。
しかし、
そこにある言葉は変わらず
「最初の一歩は難しい。 そして次の一歩はもっと難しい」
なのだ。
そう、言葉は変わらず私を見ているだけなのだ。
その言葉は私の心をそのまま見せてくれる鏡のような言葉なのだ。
だからいつだってそれは私にとって至言となる。
そんな言葉が、金言であり、活かす言葉であり、
そして忘れられない言葉として、私の心に熱をくれるのだった。
その週のテーマで、書きたい方がでてきたら
掲載をしていっています。
今週は、北海道でNLPを受講された
NLPマスタープラクティショナーの谷岡さやかさんです。
とても深い内容ですので
楽しんで読んでみてください。
*****************
言葉であらゆるものを形容するが、
言葉そのものを言葉で形容する、となると
はたと手が止まる。
「矢のように突き刺さる言葉」であったり、
「心に染み入る言葉」であったり、
その言葉の意味に特化した表現になってしまう。
できれば、”言葉”全般を捉えてヒトコトで表現したいと思った。
そこでしばしアタマをぐるりと捻って考える。
「鏡のような言葉」
これはなかなかないような気がする。
そういえば、かつて自分が言われてそう感じた言葉がある。
「最初の一歩は難しい。 そして次の一歩はもっと難しい。」
私がとある研究会を立ち上げたものの、
次の年に周囲のモチベーションが上げられなくて
なかなかうまく運営できなかったときに、
心から尊敬する先輩から戴いた言葉だった。
道立の研究所に入って研修を受けていたときに知り合った、
場所が場所なら上司になるようなベテランの方だった。
気さくに話し、自分が経験して得たすばらしい
エッセンスを惜しみなく分け与えてくれる、
優しい人であった。
と同時に、
保身のために主義を曲げるようなことはせず、
信念を持った硬骨漢でもある。
人を育てることが、それは素晴らしく「デキる人」だ。
結果として、
その研究会は、私の転勤をもって、
別な方へバトンタッチすることとなり、
残念ながらその研究会の行く末を見ることなく、
現在の勤務地に引っ越すことになってしまった。
しかし今でもその言葉を思い出す。
「最初の一歩は難しい。 そして次の一歩はもっと難しい」
そのときの心のありようで、
この言葉はその言葉以上に私に語りかけてくる。
あるとき私にこう語りかける。
何もないところから創り出すことの難しさ。
そしてそれを維持していくことの難しさ。
それは比較のしようがない、どちらも血のにじむような努力が必要である、
という教訓でもある。
あるときは、
それ故に一人で背負い込まず、助けてもらうことも大切なのだ、
目標はどこにあるか、人に頼らないことが目標なのではない。
初めに掲げたその目標を達成することが大切なのだ。
あるときは、
最初の一歩を踏み出して、天狗になるな、
次のその一歩をしっかりと踏みしめるまで、
気を引き締めていくのだ。
そしてあるときは、
難しい、難しいからやめるのか?
でもそうまでしても達成したい自分の心に
ベールを被せてしまうのか?
・・そう問いかけてくることもある。
しかし、
そこにある言葉は変わらず
「最初の一歩は難しい。 そして次の一歩はもっと難しい」
なのだ。
そう、言葉は変わらず私を見ているだけなのだ。
その言葉は私の心をそのまま見せてくれる鏡のような言葉なのだ。
だからいつだってそれは私にとって至言となる。
そんな言葉が、金言であり、活かす言葉であり、
そして忘れられない言葉として、私の心に熱をくれるのだった。